2020年12月5日(土)
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東海村の歴史(2012年茨城県母親大会にて)
私たちのふるさと東海村は、1955年、旧村松村と石神村の合併により誕生しました。当時の村は、白砂青松の地と言われ、太平洋に面したのどかで緑豊かな農村地帯でした。産業の中心は、米と麦の栽培、そして養豚も盛んな村でした。
1つは、ビキニ事件に言及し,原爆実験の禁止について世界各国の科学者の協力を求める,2つは、平和目的の原子力の研究について, いわゆる原子力研究の3原則、公開,民主,自主の実行を求め、後に原子力基本法にとり入れられ,日本の原子力開発利用の基本方針とされました。
1項目 原子力の研究、開発および利用の情報は完全に公開され、国民に周知されること。
2項目 原子力研究は民主的な運営によってなされ,能力あるすべての研究者の十分な協力を求めること。
3項目 原子力の研究と利用は、自主性ある運営のもとに行われるべきこと。
しかし、研究所建設は強力にすすめられ、住民は先祖代々の墓地や宅地など移転を迫られました。海岸に通じる松林の道には有刺鉄線が張られ、子どもたちの遠足や海釣り、はまざくを取りにいくための道がうばわれました。
時をおかず、学校現場では「原子力発電所の安全性」の項目に12ページも割いた原子力読本が活用され、「爆発したり暴走したりするようなことはない」とする教育が始められました。
1966年7月25日、国内初の商業用原発、東海原発が営業運転を開始、1977年9月22日、使用済み核燃料再処理工場が村内で運転を開始しました。
次いで1978年11月28日、東海第二原発が営業運転を開始しました。
こうした中、1982年7月4日、第22回茨城県母親大会が、東海高校、村民会館を会場に初めて東海村で開かれました。大会成功の源動力は、旧原研、旧動燃、旧晴嵐荘と役場、それぞれの労働組合婦人部の有志が中心になった母親連絡会でした。
原子力路線をまっしぐらにきた東海村は、1997年3月11日、旧動燃再処理工場アスファルト固化処理施設で大爆発事故が発生、作業員37人が被曝しました。夜の8時過ぎ、とどろいた爆発音が再処理施設からと知った私たち住民は、震えが止まりませんでした。
3月22日、茨城労連を中心とした民主団体合同で県民抗議集会が開かれ、動燃前までデモ行進が行われました。
10キロ圏内住民に屋内退避が発令され、辺り一帯はゴーストタウンと化しました。その後の風評被害では、産業や経済にも大きな影響が出ました。
このとき、阪神淡路大震災後に住民の大きな要望で設置された屋内外防災無線が活躍しました。
県内民主団体は、翌年9月、JCO臨界事故を忘れない、原子力事故をくりかえさせないと銘打った第1回県民集会を開催、以後毎年開催し続けています。
同時に運転開始から33年、老朽化が進んだ東海第二原発は再稼働せず廃炉にとの県民要求は高まり、県内20自治体議会で住民請願を採択しています。
特に、若いお母さん達の脱原発、東海第二は廃炉への切実な思いは、全国的につながりあって、大きな流れとなっています。子どもたちの将来にわたって安全を守るのは大人の使命です。
私たちは、県内そして全国のみなさんとも繋がり励ましあって、子どもたちの未来のために、原発マネーに依存しない、脱原発宣言の村と、東海第二原発の廃炉を実現するためにとりくみを強める決意です。